なぜ心を読みすぎるのか
結構前に半分くらい読んだ本、『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』を読み直した。
初めて読んだ時も「なんて面白い本なんだ!」と思った気がするんですけど、読み直したらほぼすべての記憶を失っていたので、また「なんて面白い本なんだ!」と思った。対人認知の構造について、社会心理学における重要な諸々の知見も含めながら理論的な観点も含めて考察していく。個人の抱える認知のクセからマクロな観点まで加味した考察まで書籍内ではされていて、こういう教科書・講義資料が作れるようになりたいと思った。
この本を要約すると「我々は他者の行動やふるまいをもたらす内的な『心』の存在を仮定し、観察可能な情報(行動やふるまい)から他者がどういった人物であるのかを評価する。心を読むこととはなにか、ということを対人認知に関する諸研究・理論を引用しつつ考察・展開していき、なぜそれらを行うのか、ということについて議論を深めていくことで、社会の構造やマクロな集団のふるまいについても考えていく」みたいな感じかなぁ?まぁ読んでくださいまし。
共感とかコミュニケーションとかそういうのに興味がある人はぜひ目を通してみてほしい。
おもしろかったところ
本書のお話では、何度か「しろうと科学者」というメタファーが出てくる。
これはハイダーが用いたアナロジーであり、個人のナイーブな対人認知や帰属において原因の追求と行動の説明を実際に我々が日常生活でも行っており、そうした意味で「『しろうと』科学者」なのである、っていう話。
近年では、特に対人認知での『心の推論』という課題に関するFork Psychology(しろうと心理学)について計算論的に説明しようとする枠組みがZakiらの研究チームによって提案されている(例えばこちら)。
この枠組みでは、観察した事象からその原因についての推論を条件付の確率として想定して、いろいろ考えちゃおう、というものである (例えば笑顔を観察した際の、そのTargetの内的状態に関する推論を条件付確率で捉えることをイメージしてみてほしい)。
実際の研究では、ギャンブルの勝敗や期待値を参加者に呈示して、特定の感情推定に寄与する影響を調べたりしている (Ong et al. 2015)。わざわざその計算論モデルにとらえることで、どういう風にうれしいのか、をぼく自身まだ完全に把握しきれているわけではないが、今後の動向に注目したいな、とは考えている。
結局ぼくが知りたいのは、推論の際に用いられる表象や既存の知識の抽出でその辺の検討って難しいんですよねぇ…。