[研究]The Great Expression Debateについて
@ なんばいきん · Tuesday, Jan 26, 2021 · 15 minute read · Update at Jan 26, 2021

The great expression debate

感情の哲学者Scarantinoが進行役をつとめ、感情表情を説明する理論の大御所(Keltner and Cordaro, Fridlund, Russell)が歴史に残る議論を展開したThe great expression debate について、自分用にまとめておいた。
2020-2021の年末年始はこれを読んで過ごしてた。

前提情報

基本感情理論(Basic Emotion Theory, 以下BET)=Ekmanが提唱した、「怒り」「恐れ」などの感情と対応するプロトタイプ表情が存在することを仮定した理論。全人類共通の普遍的な感情表情が存在し、表示規則によってその表情が調整されることで文化によって異なりうる最終的な表情が観測される、というのがメインの主張。

Keltner and Cordaroの立場=BETの感情と表情の対応を①確率的な関連として仮定し、②Multi-modalな観点まで拡張することによって多様な感情表現を捉えることができるとする拡張版BETを提案。

Fridlundの立場=BETに関する種々の問題(「感情」の定義・経験的知見の不足・理論の整合性)を強く批判。社会的文脈における表情の機能に着目した行動生態学的観点 (Behavioral ecological view, 以下BECV) を提案。

Russellの立場=「感情」を素朴な概念と捉えるなら了解可能で、表情はComponentレベルの対応を想定することが経験的知見と合致する、という方向性。強い主張ではない(同じ構成論者であるBarrettと比較するとなおさら)。


各理論家へのQ & A

※いうまでもなく、以下の文章はすべて多くの文脈をカットした僕の理解に基づく要約です。詳細は本文を参照すること。

疑問 to Keltner-Cordaro:動的特徴とマルチモーダルな要素を含めることによるBETの拡張は、従来の表情と感情の対応、というBETの話とは違うものなの?

回答 (K-C):初期のBETとは異なるものになる (補足:1992年のEkmanはマルチモーダルな感情信号に着目してる)。表情以外のモダリティに着目すれば、感情Displayはさらに拡張されていくだろう。

確認 to Keltner-Cordaro:一度も”basic emotion (基本感情)”という単語を用いなかったね。新しい観点では、”basic”が拡張されてるの?それとも”non-basic”を認めていろいろ想定してるの?

回答 (K-C):”basic”というのを仮定すると”non-basic”のものとは明瞭に区別できないという批判がある。限られた文脈では”basic”の使用にも利点はあるが、マイナス面のほうが大きいし”well-studied”っていったほうがよくない?

疑問 to Keltner-Cordaro:文脈についてはどう扱う予定なの?

回答 (K-C):信号意図と感情体験はある程度の相関があり、行動生態学的観点での文脈の扱い方に対してもある程度は我々の仮説は整合的だ。文脈は表出・解釈の多様性を引き起こす。文脈も加味したモデル化を今後していく必要がある。詳細は経験的知見を必要とする問いだが、とりあえずマルチモーダルだと文脈があってもある程度信頼的な信号となるはずだ。

疑問 to Fridlund:感情は行動準備の状態も含みうるので、社会的意図を含有した感情表情は想定可能だけど、徹底的に感情を排する理由はなんだい?

回答 (F):「感情」の概念は順応性が非常に高く、そんな言葉遊びはやってられない。私は、「幸福であることを伝達する顔」を受け入れることができない。幸福の有無を科学的に決定する手法がないからだ。むしろ、特定の社会文脈の中で特定の表現(e.g., 笑顔) が親和性を確率的に促進しうる、ということでしか言えない。そこには特定の神経・形態は必要でなく、観察される機能こそが重要だ。

疑問 to Fridlund:(Fridlundはだましの観点から考えて、BET的な「感情の自発的な信号伝達」が進化的に生じないだろうことを指摘している)感情を伝達することが送り手の進化的利点にならないのだとしたら、意図を伝達することの利点はどうなのか?感情の科学的定義の実行可能性についての懐疑に関する理由はなんで?

回答 (F):BECVでは、顔がそのまま一義的なもの (ここでは意図) を反映する、ということは考えてない。信号とその評価の両方が相互に動的な社会的交換として展開される。
BECVにとって説明的概念の感情は必要じゃないからね。感情それ自体の存在論は、Russellの構成論的アプローチに共感してる。私はその立場を概念の理解を目指してく方向性として、人類学や文化間研究に注目してるよ。

疑問 to Russell:(笑顔が幸福なしでも生じうることを指摘しているのに対して)「幸福がときおり笑顔を引き起こす」という主張に対する懐疑論の根拠はどんなものだろうか。

回答 (R):Ekmanの主張を検討する難しさの一つに、多くの要因が絡むことがあげられる。激しい幸福場面 (スポーツの勝利やオーガズム) よりは、社会的な場面のほうがよっぽど笑顔が表出される (Fernandez-dolsらの研究)。利用可能なエビデンスでは笑顔が社会的なツールであるとしか言えない。クマと相対するSalleyを考えよう。BET的には彼女の恐怖が彼女の恐れ表情を引き起こす、と考えるがComponentごとに解きほぐすことも可能だ。その場面においては、環境から逃げ道を探すための視覚探索と関連して目を見開く、というのが有力な説明だと考える。それを支持する証拠が蓄積されれば、BETの「恐れ表情」に関して、なぜ恐怖時にしばしばその表情が生じたり、生じないことがあったり、恐れなしでも生じることがあるのかを正確に説明できることになるだろう。
多様な理由から、「感情」とそれに類するものが有用な科学的用語ではないということも感じてる。

確認 to Russell:感情と表情の因果関係を主張する理論家は、幸福が笑顔の生起確率を高める確率的な原因であることを仮定していると思うんだけどそこんとこどう?

回答 (R):BETがそんなことを言ってるとは思わないが、そう仮定しても「感情(幸福)のなにが表情(笑顔)を引き起こすのか」「どんな条件がそれを実現するのか」という疑問をより詳細に明らかにしてく必要がある。感情のどの要素が、そしてどんな文脈でそれが原因となるのか、が重要だ。

疑問 to Russell:感情と表情の相関について、BETでは表示規則、感情の混合、表出にかかる強度閾、基本感情Familyという概念を援用することで、それらの結果の多様性を説明している。これらは正当なものだろうか。

回答 (R):BETはある所与の感情に関して、要素同士の密接な相互相関を想定してるために、理論は低い (感情と表情の) 相関を説明することを強いられている。提案された概念はすべて仮説に過ぎず、問題はそれらがBETと組み合わさる時に生じる。
例えば、表示規則には特定の予測に関する方向性がない。Ad hocな説明に用いられる以上、BETでは証拠の存在 (表情と感情の相関) が意味をもたなくなる (関連記事)。
混合も意味わからん。恐れと怒りが混ざると眉は上がるのか下がるのか?自律神経では何が起こるんだ?このルールの欠落がBETにおけるAd hocな説明に加担してしまう。閾値も全然基準がない。要素の重みづけに関して表情はあるけど主観がないのは?その反対は?感情カテゴリーがFamilyを形成するというのもただのアイデアに過ぎない。実際に存在する知見が支持するのは古典的な感情カテゴリーでなくカテゴリーのプロトタイプからそうした事象を説明可能ということだ (Fehr & Russell, 1984)。BET以外であれば感情の要素間の相関が低いことをがんばって説明しなくてもよい。例えば、心理学的構成論では、感情は構成要素に置き換え可能であり、共通の要因や内部の関連を仮定しない。表情を含む多くの要素は感情から生じるのでなく、ある条件下での要素が表情を生み出しうるのだろう。

全体に向けたQ & A

疑問 to All:3者の共通点である①感情と表情の1:1対応がないこと、②プロトタイプ表情に依拠した方法論の問題、ってとこから表情研究が収束していく?それはどのように?プロトタイプ表情を用いない方法論の代替案も教えてくれ。

回答 (R):その共通点こそ私の観点だ。K-Cのマルチモーダルとダイナミクスの拡張には敬意を表するし、産出・解釈両方の観点および文脈や性格なども含めた複雑な相互作用を捉える新しい手法が求められている。方法論としては従来のラベリングではなく、解釈に着目していく必要がある。まぁいつかは収束するだろうと楽観視している。この検討の際には、感情の説明が必要であり、我々はそれを認知的に構成されるものと想定している。

回答 (K-C):重要な欠陥があるのはまちがいないが、過去の方法論が感情の科学を軌道に乗せるうえでは重要であったと認めるべきだ。マルチモーダルでダイナミックな表現に着目し、認知は自由記述で回答していく方法論が望ましい。社会的感情 (誇り、愛など) があることからも感情が生じる文脈についての検討も大事だ。これらがより生態学的に妥当な知見を提供できるだろう。

回答 (F):この問題は「個別感情」「プロトタイプ表情」の存在が前提である時点で、私からすれば空想上のドラゴンの話題と大差ない。「感情」を知るための科学的定義はないと思う。定義がないんだから有意義なデータはなに一つ作れない。

確認 to Fridlund:個別感情が存在しないってこと?それともそれが科学的に検討可能かどうかを疑問視してるだけ?あと代替案を聞かせてくれ。

回答 (F):用語の定義がない限り、なにを答えても無意味だ。BECVにとって重要な疑問は、「感情が存在するか」ではなく、「どのように社会的相互作用で表情が機能してるのか」だ。後者ではBETの制約された観点は必要ない。方法論の一つは帰納的類型学 (Chovil, 1991) だね。


疑問 to All:表情の普遍性に関する最終的な立場・含意・要約を聞かせてくれ

回答 (K-C):手法や測定が洗練されてマルチモーダルな観点で記述していけば、(特定信号行動・生理反応、評価、機能的結果に関する) 普遍性の程度について言及できるようになることを期待している。

回答 (F):普遍性とは顔が固定的な意味を持つことを前提にしている。一方で顔に対して帰属可能な情報の数には限りがない (Chernoff, 1973)。表情の「伝達」が意味するのは、文脈内で観測した顔の動きに対する帰属・推論だ。K-Cは単にサンプルにマッチングするランダムな組み合わせを得て、それの最小値と最大値を並べただけで、彼らのカテゴリカルな仮定はパラメトリックな関数を検討できない。普遍性で解決したい問題もわからない。表情のある特徴が、既知の人間移動パターンの関数として特定の遺伝子型によって異なるか、とかは問う価値はあると思うけどね。
K-Cは「感情」の定義上の問題を解決しないどころか複雑化して問題を生じさせてる。一つは、単純な変数追加で誤差項の累積を引き起こしている。二つ目は実在性だ。どういったときにどんな表情がでるのか、表示規則がそれをどうするのか、そうした予測の方向性は規定できるのか?主観報告 (クオリア) を捨てた際の感情を決定づけるものはなんだ? (ここでFeeling抜きの感情を「感情*」と称して、粋なギャグを披露してるが面倒なので訳さない)
Russellの最小限普遍仮説は仮定がなく一から構築する点で同意できる。私たちの知識は少なすぎる。

回答 (R):普遍性の話題は、感情と表情の対応に関するBETを前提としてるけどそれはあくまで仮説だ。同じ方法をとるのでなければ普遍性の研究は、それが社会間の研究である以上継続を勧める。私が「最小限」という普遍性の形式で認識しているのは「観察者が他者の表情から情報を獲得している」という点だ。表出者の内的状態は普遍的かもしれないが、カテゴリーは文化や言語によって異なりうる。
さて、Fridlundの批判は説得的だし、K-Cの対応には敬意を表する。ただ、その核となる主義を捨てずに、証拠と相反しないようにBETを修正していくことができるかについては私は懐疑的ではある。3つすべての(実際には代替)概念的枠組みを経験的かつ理論的に追求していくのを見ていきたいものだね。


疑問 to All:感情の科学は生産的な「感情」の定義およびそのサブカテゴリーを提供できているかなぁ? (補足:Ekmanは個別の信号、普遍的な生理パターンなどの基本感情を定義するためのリストを提供している: Ekman, 1999)。

回答 (F):BETのターゲットは常にぶれっぶれだ。自己矛盾を繰り返し、Ekmanは1999年に11のリストをつくりこう述べた:「基本感情をインスタンス化させるための必須条件はありません」
これでなにをしろというのか?「抑圧されない生起」「短い持続時間」などといった曖昧で冗長なリストで科学的定義など作れるはずない。感情が存在しない場合の基準も不足している。K-Cは基準を緩めることでつぎはぎを続けてるが、その理論がそもそも説明的価値を持つかを問われるのは当然だろう。お互いに伝達する方法や社会的な領域を案内する方法を理解することに関して、BECVが提案するのは明確かつ代替的な方向性であり、人類学者や歴史家がより一層必要となる。

回答 (R):2種類の定義を考えよう (Russell, 1991)。素朴概念を捉えるのが目的の「記述的定義」としてBETの定義を見れるか?通常の人はそんなリストに照らし合わせて感情を理解などしていないだろう。一つのありうるやり方は11リストの一部をピックアップすることだが、そうすると虚心症 (固有の生理反応、短い持続時間etc…) も対人恐怖症 (自動的評価、急速な立ち上がりetc…) も感情になってしまう。もう一つの定義は、科学現象を理解するための有益な概念を科学者に提供することが目的となる「規範的定義」だ (例:チューリングテストを通す能力としての知性の定義)。Ekmanのリストは基本感情かどうかを正確に指示できない意味でそれにもあてはまらない (ちなみにこのリストに基づく正確な予測を目指す研究を一度も目にしたことはない)。
BETの理論家 (ここではおそらくK-Cのこと) に対する最後の質問はこうだ。Ekmanのリストは「感情」の定義か?そしてもしそうならその定義は、記述的か規範的か、である。もし記述的なら、素朴概念をとらえれてる証拠はどこだ。規範的ならどう測定可能な概念を作り上げてるのか。私の提案 (構成理論のこと) は「感情」「怒り」をそのまま素朴な概念として扱い、それらの単語の記述を続けていくことだ。それらの出来事における要素に規範的定義をあてはめていく。

回答 (K-C):Ekmanのリストは実用的なもので、経験科学を志向するものだ。それに基づく研究はたくさんある。それが失敗している、としているのはいささか素朴な観点だ。
BETリストによる基準の利点を3つ挙げよう。1.そうしたリストにより愛や当惑などより多様な感情に関する研究が進展した。2.誰かがある感情の状態を理解したい際にリストの適用が機能する。3.機能的アプローチに関する基盤の規定に成功している点だ。改訂の必要性の前に、重要な点も強調しておこう:11のリストが回顧的かつ言語・文脈に依存しやすい主観報告に依拠することを避けることもできるのだ。
だが重要な調整も必要だ。それは文脈を加味することの必要性だ。これは信号行動の研究に深い洞察を提供する。もう一つの調整は動的な展開を捉えることだ。これも重要なポイントだ。 もちろん、感情はより複雑であてはまる基準あてはまらない基準はありうる。感情のロバストな定義では、感情間を区別するだけでなく概念間の似た感情の共通性を実証しなければならず、これは現状のBET公式では欠けている。反応と状態のマッピングを完全に理解することが求められる方向性だ。


御礼 to All:素晴らしい議論をありがとう!!

感想

Keltnerらの立場は徹底的に「普遍的な感情システムは存在する」という姿勢を固持していて、Fridlundはその立場を徹底的に否定している。Russellは研究や議論が発展する観点でのみ、BETの研究を評価しているが、基本的にはFridlundに同意し、「感情」を素朴な概念でとらえるべきという構成理論の立場を示している。このDiscussionからも、透けて見えると思うが、BETの立場を固持する、っていうのは結構無理筋だとやっぱり実際のエビデンスを見てるとなおさら感じる (2013年のEmotion Review参照)。

ぼく個人の考え方は、その背後に要素還元アプローチを想定した記述的定義としての感情を積極的に肯定して、表情については「この内的状態と対応する信号です」というよりは「この喚起条件ではこういう信号がより多く見られました」という記述を充実させることで、いつかは統一的な理論を描けるんじゃないのかなー、と思ってます (現段階では)。けどその根っこ (というかその方向性での最終地点) にはやっぱりBET的な想定がありそうでブレブレです。研究の発展を促す、という意味ではScarantinoのAffective Pragmatismに興味を持っているところです。もっと深く考えていきたいです。この適当なまとめが誰かの思考の役に立てばいいな。



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